Skole と日常のクロッシング その1(report 0408)

2017年4月8日に満開の桜が小雨に濡れるなか、【こころとからだの学校Skole】第2期がスタートしました。 この日に始まったメイン講座は、《明日が変わっていくための6つのメソッド》を六人の先生方から教えていただく連続ワークショップです。

method1 「感じる」を担当されたのは、関西大学大学院心理学研究科の池見陽先生です。

池見先生とは私(越川陽介)が関西大学の大学院に入学してからのお付き合いです。それまでフォーカシングの「フォ」の字も知らなかった私ですが、少人数制の授業でご指導いただく機会があり、理論や実践について体験を交えご教授いただきました。大学院修了後も学部のゼミに参加させてもらったり、スイスで行われたフォーカシングの国際会議にご一緒させていただいたり、毎月第一木曜日にあるサンガ(池見先生のホームページをご参照ください)に参加させていただいたりと、何かとお世話になっております。今回はどのような展開になるのかと、とても楽しみにこの日を迎えました。

 

method 1では「感じる」をテーマにフォーカシングについて勉強しました。

まずは岡村心平さんからのイントロダクションで場がなごんだあと… 池見先生のレクチャーと実演と、みんなのワークが始まりました。

・フォーカシングにとって大切な概念としての”体験過程”

・言葉にならない“感じ”を“体験”して“表現”して“理解”する。三つの循環。

・自分を表現して理解を深めるワーク、「アニクロ」

・追体験と交差の理解を深めるワーク、「砂浜のワーク」

・フォーカシングのデモセッション

・追体験を連ねて作品を創るワーク、「フォーカシング的連詩」

 

池見先生は冒頭、言葉による説明だけではそれを理解することは難しく、体験してみることで理解しやすいと話されていました。 それはまるでクロールの泳ぎ方を説明されただけで、実際にプールの中で泳いでみることで泳ぎ方がわかっていくようなものです。 つまり“アタマ”で理解はしても実際に体験してみないとなかなかピンとこないということだと思います。 また、人が感じていることのなかには、なかなか言葉にならないものがあるとも話されました。例えば、会場の雰囲気を講師も参加者の方々もスタッフもそれぞれ体験的に感じてはあるものの、なかなか言葉にならない“感じ”があるとのことでした。池見先生は会場の雰囲気を「まだ温まっていないうどんすき」と表現しました。会場の参加者からは「三月の桜」「新入社員の初めての花見」などの喩えが出てきました。この様な、なかなか言葉にならない“感じ”を何かに喩えることで理解は少しずつ進んでいきます。そして、その理解を自分の体験にしっくりきているかを確かめてみる。この“体験” “表現” “理解”を循環させながら自己の理解が刻々と変化をしていっていると話されました。

 次にこの考えをもとに自分を表現して理解をしていくワークを行いました。

アニマルクロッシング(通称: アニクロ / 英語表記: crossing with animals)と名付けられたワークで、最近の自分を動物に喩えて、それに形容詞を付けて表現するワークです。短い時間で楽しみながらできるこのワークですが、話す方にとっても、聴く方にとっても、体験過程を促進するうえで大切な概念である“追体験”と“交差”が自然と体験できてしまうところがとても魅力的なワークでした。参加された皆さんは、それぞれに個人の状況をよく言い表している動物が出てきている様でした。私も後ろの方で一人でどうかな、と振り返ってみていましたが、出てきた動物は「目を凝らして星を眺めているカメ」でした。

 さらに、追体験と交差の理解を深めるために行ったのが砂浜のワークです。砂浜を歩いている人のストーリーを聴き、そこで感じられたことを共有するワークです。このワークを通して分かったことは、一人だとそこで完結してしまうことでも、聴き手という他者がいることで話に深みや広がりが出ること、そして聴き手が違うことでその広がり方はまた違ったものになるということです。

追体験と交差について理解が深まり、次はフォーカシングのセッションを行いました。受講生のお一人と池見先生のフォーカシングのセッションです。 ここで感じたことは「沈黙の意味」でした。日常生活の会話における沈黙は、気まずさを伴っていたり、居心地の悪さを感じる場面として捉えられます。しかし、フォーカシングのセッションとなると話は別で、沈黙の時間は、自分の言葉にならない感じとのやりとりをする大切な時間となります。普段は沈黙を怖がってしまう人でも、フォーカシングセッションでの沈黙は話し手にとっては、大切な時間なのだなということを理解出来る瞬間になると思います。

 そして最後のワークはフォーカシング的連詩のワークを行いました。6-7人でひとグループになって、書き出しのフレーズから順に、ひとつ前のフレーズだけを読み、追体験してフレーズを連ねるというワークです。回ってきたひとつ前のフレーズしか見ていないものの全体を通して読んでみると、ひとつの作品のようになっていて、とても不思議だけれど心温まるワークでした。 下記にお示しするのは私が参加させてもらったグループの作品です。

自分:雨に濡れた桜の露は仄かに暖かい

メンバー1:私の心も仄かに暖かい

メンバー2:桜の花を愛でていると風がフッと流れた

メンバー3:花びらが踊るように舞った

メンバー4:朝露もはじけるように舞った

メンバー5:舞い上がって露は雲の彼方にとんでいった

メンバー6:地上では、また新しい季節が始まる

 

 

日常とSkoleのクロッシング1

物事を決定することと優柔不断さ

 

今日の学びがどんな風に日常生活とクロッシングするかなと、今回の池見先生の話を聞きながら連想してみました。そして浮かんできたのは「何かを決めることと優柔不断さ」でした。

優柔不断というと、普段はあまり良い表現としては用いられないと思います。「優柔不断」をキーワードに検索してみると、メリットやデメリットを挙げて説明しているサイトもあれば、「優柔不断は、情報処理能力が磨かれておらず努力が足りない人」と表現しているサイトもありました。 私はどちらかというと優柔不断な人間だなぁと思っているので、その表現には結構ショックを受けたのですが、実際に日常生活のなかで何かを決めるとき、例えばお昼ご飯に何を食べるか、休み日にどこへ遊びに行くか、スーパーで買い物をするとき、たいてい私は、どの選択肢を取るかに時間がかかってしまいます。

日常生活のちょっとした場面での決定になんでこんなに時間がかかるんだろう? と考えたときに、ふと思い浮かんだことが「いま、自分の感じがどうなのかをじっくり確かめている」ことでした。冒頭で池見先生は言葉にならない“感じ”について説明されていました。この実感を確かめてみる作業は時間のかかる作業だと思います。受講生の方のなかでも、会場にいたときの感じやアニクロで最近の自分を動物に喩えようとしてみたとき、連詩で一文を書くときに、自分の実感を確かめながら表現しようとしたときに、普段以上に時間をかかった方もいらっしゃったかもしれません。このように、自分の感じられているものを確かめる作業というのは普段よりも時間がかかるものなのだと言えるかもしれません。

 

また、優柔不断な人は選択した後も、選択しなかったほうがよかったかな? と思うこともよくあるということが書いてありました。それも私自身よく経験することです。午後からの仕事のため別の職場への移動中、あまりお腹が減っていない状態でコンビニに立ち寄ったとき、「唐揚げ弁当もいいけど、今はそれじゃなくてサンドイッチがいいかな」という感じがあったとしても、職場についてご飯を食べようと買ってきたサンドイッチをみたら「あれ、これだけじゃなんか足りない気がする」というように、感じが変わっていることがよくあります。その時点で「ああ、やっぱり唐揚げ弁当にしておけばよかったな」と思うことが時々あります。体験過程-自分の実感-は刻々と変化していくものでもあると説明がありました通り、時の流れとともに変化していくものとも言えると思います。その状況状況を人は生きているので、その時点で感じられる自分というのは変わっていくのだと思います。

 

優柔不断さにはいろいろな理由があるでしょうが、ひとつの側面には「自分の実感を大切にしている」ということがあるのかもしれません。

 

 

 

日常とSkoleのクロッシング2

“アタマ”で物事を考える。

“アタマ”で“こころ”も考える。これが優先された社会

 

もうひとつ、池見先生のお話を聞いて連想したことは、「“アタマ”優先の社会」ということです。日常生活を振り返ってみると、いかに“アタマ”で考えて理解して行動しているか、ということがよくわかります。 論理的・理性的であることを求められて、自分の気持ち、“こころ”までもを“アタマ”で理解しようとしてしまう。 そしてそれが優先された社会になっているのではないのかなと思いました。

もちろん、論理的であることや理性的であることを否定しているのではありません。よく私は論理的という印象を人から持たれます。自分自身でも論理的に考えることのほかが多いですが、“アタマ”で考えることは、周囲と効率的に、誤解を少なくやりとりしていくためには必要な力だとも思っています。私は仕事のひとつとして研究をしていますが、研究で取り上げたテーマがどのような点から重要で、どのようなことを明らかにしていく必要があるのかを順序立てて説明したり、解析した結果に関して今までわかってきていることからどんな考え方ができるのかを分かりやすく示す必要があります。

 

それだけではなく、人との関係のなかでも論理的・理性的に物事が動いています。誰しも、生活のなかでそのような場面は多いのではないでしょうか?  業績を上げるために疲労度や能力を超えて仕事を詰め込んでしまったり、人事の評価を売り上げや今までの業績で判断してしまったり、いろいろな場面が思い浮かびます。このように振り返ってみると、社会生活を営む上では“アタマ”に基づいた理解や行動が当たり前な雰囲気を感じました。

しかし、この【こころとからだの学校Skole】で大切にしているのは“からだ”です。 池見先生のお話のなかで「からだで言葉と感覚をすり合わせをする」というフレーズが出てきました。自分を理解するための音叉は“からだ”であって、そこに響かせてみることで自分ではまだはっきりしなかったものに少しだけ輪郭ができてくる。 それは日常生活で優先されている“アタマ”を使う作業とは全く別物だと思います。 だからこそ、普段から優先されている“アタマ”のモードに留まってしまわないためにも、実際に体験をしてみて“からだ”で感じることが大切になると感じられました。

そのようにして“からだ”で実感したSkoleでの学びを活かし、“アタマ”と“からだ”のバランスをとりながら活用していくことで、少しずつ、あしたが変わっていくのではないかなと思いました。

 

 

 

次回は「気づく」をテーマにプラユキ・ナラテボー先生が担当してくださいます。今回の「感じる」がどの様に交差していくのでしょうか。次回も楽しみです!

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